『ショコラ 君がいて、僕がいる』

監督:ロシュディ・ゼム

東北新社、STAR CHANNEL MOVIES配給、2017年1

 

金子 淳  (かねこじゅん)

団体職員

 

ベル・エポック期のフランス。白人芸人フティットと、黒人芸人ショコラによるかつてないコンビがサーカスで大衆の人気を集めていた。

彼らはパリの名門ヌーヴォー・シルクの専属となり瞬く間に一世を風靡するが、人種差別の根は深く、ショコラはその苦しみから逃れるように酒とギャンブルに溺れていく―。

映画の祖リュミエール兄弟がその姿をフィルムに収め、トゥールズ=ロートレックがその姿をキャンバスに描くなど、数多くのアーティストに影響を与えた伝説の芸人コンビ「フティット&ショコラ」。本作は奴隷の子として生まれながらもフランス史上初の黒人芸人としてスターに登りつめ、笑いで革命を起こしたものの、歴史に名を残せなかったショコラの生涯、そして誰よりもショコラの才能を信じ支えた相方フティットのコンビ愛を、丁寧に真摯描いた感動の実話。本国フランスでは『最強のふたり』を超えるコンビものの感動作として大きな話題となり、エンターテインメントから忘れられた存在だったショコラが、再び脚光を浴びるきっかけとなった。

≪公式ホームページから引用:http://chocolat-movie.jp/≫

正直に言えば、前半の30分、正確な時間は忘れてしまったが、席を立とうかと思ったほど、それほど退屈だった。

海を越えた向こう側の笑いが理解できないのかもしれなかったが、もっと明確な理由。私が退屈した理由、自分自身の残酷さに気づいていたにもかかわらず、それを決定づけるシーンは、それまでの退屈さを覆し、私はと言えば本性を現したのである。私は待っていたのだ。ショコラがいきり立ち、覚悟を決めた瞬間、はっきり言えばそれがショコラにとっては逆転勝利の瞬間であり、フティットにとっては屈辱の瞬間を。いつも観衆の前で平手打ちや尻を蹴り上げられるのは決まってショコラのほうであった。だが、ショコラはある時、投獄されその中でハイチ出身の黒人ジャーナリストに出会う。それによりショコラは自分に起きていること、自分の置かれた状況に疑問を抱き始める。

「真の芸術とは、風穴を開けること」とジャーナリストは言う。昔のサーカス小屋時代の恋人からもらった『ロミオとジュリエット』ではなく、ジャーナリストからもらった『オセロ』に導かれ、ヌーヴォー・シルクを離れる決心をし、フティットとの最後になる公演中、ショコラはフティットに平手打ち(尻を蹴り上げた、だったかもしれない)をお見舞いし、観衆は笑い、「平手打ちを受けるのが俺でなくても、笑いはとれる」とフティットに別れの言葉を告げた。それがこの映画を最後まで見続けようと思った理由であり、何人をも侮辱することは許されないはずなのに、フティットが侮辱され、ショコラの笑顔を望み、白人が許しを乞うことを望み、黒人が二度と痛めつけられないよう望んだことが、私の本性である。ショコラの勝ち誇った笑顔は、私を恥じさせ苦しめたのだ。「いい気味だ!」と言う人間が大嫌いだったはずなのに、痛めつけられたことのある人間が、ショコラが、復讐することなく幸せになれる人間であることを望んでいるのに、私はショコラの復讐を後押ししたのだ!

ファッションデザイナーの故アレキサンダー・マックイーンがあるコレクションで、大きな箱の形をした鏡を舞台に置き、観客はそこに映る自分自身をみつめるか、目を逸らすか、「おまえはそんなに上等な人間か?」と問いかけた。私は上等な人間ではなかったのである。

劇中の『オセロ』のシーンについても言及したいのだが、また別の機会に。

もしリメイクの権利を買うことが出来るのであれば、映画を白黒にして更に反転させるだけで十分だ。ショコラの痛みはフティットのものにもなり、観衆の愚かさ、私の残酷さ、一瞬にして誰かのものとなり、世界は悲しみと愛とおかしみに溢れていて、勇気をどこで手に入れるべきか、と途方にくれたのである。

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