ポピュリズムと普遍的人権

テオ・ファン・ボーベン

オランダ・マーストリヒト大学国際法名誉教授、元国連人権センター所長、IMADR理事

 

1.傾向と変遷

欧州で、米国で、そして世界のその他の国々で、包摂的な社会に背を向ける政治的・社会的心性が顕著な傾向として見られるようになっている。そこでは、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」ことを認めた、世界人権宣言前文の最初の段落が省みられることはない。

ベルリンの壁の崩壊(1989年)をもたらし、冷戦の終わりを告げ、そして平和と開発のための行動課題の立案を通じて新たな国際協力のあり方を切り開いた一連の瞠目すべき出来事の後、ウィーン世界人権会議(1993年)は、人権および基本的自由の普遍的性質には疑問を挟む余地がないと厳粛に述べ、あらゆる人民の自決権を再確認した。ウィーン会議では、民主主義、開発および人権・基本的自由の尊重は相互依存的であり、相互に強化しあうものであることにも正当な注意が向けられた。ベルリンの壁が倒された後である当時は、壁とフェンスと狭い門戸の時代は過去のものであり、開かれた境界が未来の展望であるかのように思われた。そのことは、人、サービスおよび物の自由な流通を基礎とする欧州共同体(後に欧州連合)の枠組みにおいて、少なくとも思い描かれてはいた。しかし、2001年9月11日に大きな揺り戻しが起きる。ニューヨークのツインタワーにテロ攻撃が行なわれ、ワシントンDCの国防総省が自称「対テロ戦争」を最優先課題とするに至ったのである。同省がいうところのこの戦争は、とくに拷問の絶対的禁止に違反する手法が国境にかかわらず、そして制限なく用いられたことで、人権に対して深刻な侵食効果を及ぼした。

9・11という劇的な事件の前から、サミュエル・ハンチントンはすでに「文明の衝突」という仮説を打ち出していた。敵対しあう文化的・宗教的アイデンティティが紛争の主たる源になるというものである。そこでは、「西洋対その他の世界」が今後の合言葉になるかどうかという問題が提起された。それどころか、ポピュリズムが勃興する現代では、新たな障壁や新たな壁が構想され、あるいは実際に築かれている。たとえば、米国とメキシコの国境を封鎖したり、イスラエル国と被占領パレスチナ地域との間にフェンスを張り巡らせたりという具合である。同様の建設が、バルカン半島や中欧・南欧でも、欧州の裕福な国々で保護、安全、安寧を求めようとしてやってくるシリア、スーダン、エチオピア出身の難民やその他のアフリカ諸国出身の移住者を押しとどめるために進められている。人種、宗教、世系、民族的・国民的出身が異なる「他者」がヨーロッパにたどり着こうとする際、しばしば自分たちの生命を危険にさらし、密航を手配する犯罪者に搾取されている現状では、基本的規範である人権法・人道法文書は死文化し、あるいは今後も死文に留まってしまう。

これらの「他者」は、豊かなヨーロッパになんとかたどり着いて滞在するようになったとしても、民族的ナショナリズムの排外主義的な、そして過度に愛国的な態度にさまざまな形で直面している。こうした態度を露わにするのが、「オルタナティブ」な情報とハーフ・トゥルース〔人を騙すことを目的とした虚実ないまぜの情報〕で理論武装したポピュリスト的な勢力とその支持者たちである。このような勢力は、「他者」は国家のアイデンティティに対する潜在的または現実的脅威であり、したがってよそ者として(あるいは社会外の存在としてさえ)扱われるのがふさわしいと非難することをためらわない。現在ヨーロッパを覆っている政治的・社会的雰囲気のなかでは、極右の政治的指導者たち、とくにウィルダース氏(オランダ)、ル・ペン氏(フランス)、ファラージ氏(英国)、ペトリー氏(ドイツ)、ホーファー氏(オーストリア)などが同じ排外主義の旗を振り、「自民族最優先」という同じ人種主義的メッセージを発している。トランプ氏の「アメリカ・ファースト」も同じ類の概念そのものであり、法の支配および人間の尊厳・平等の尊重を拡げていくことによって対抗していかなければ、あらゆる点で包摂的な、世界人権宣言に掲げられた権利と自由が完全に実現される社会的・国際的秩序(世界人権宣言28条)に対する、重要な脅威となろう。

 

2.包摂と排除

「包摂」と「排除」は、現代のポピュリズムの反乱を評価する際に鍵となる概念である。国際法、より具体的にいえば国際連合法は、長い年月をかけて排除から包摂へと歩を進め、周縁化によるよどみとグローバル化の影響の間を、また恐怖がもたらす脅威と安全な状態との間を揺れ動きながら発展してきた。国家主権を主張することから生まれた法律と実行が国際的な協力および参加の法へと徐々に進展していったのは、このような背景があってのことである。同じ背景から、現在および将来の世代のために持続可能な未来を確保するための手段として、国内における、そして諸国間における連携的パートナーシップが構想されるようになっている。

第2次世界大戦中の暗い時代、フランクリン・D・ルーズベルト米大統領は、有名な一般教書演説のなかで、世界のどこにあっても「4つの自由」が獲得されなければならないというメッセージを明らかにした。言論・表現の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、そして恐怖からの自由である。このときルーズベルトによって提出された未来像が、あらゆる範囲の人権の普遍性、包摂性および不可分性の礎となった。これは、トランプ大統領が最近行なった就任演説や、同氏が用いる、胸が悪くなる排他主義的なスローガン「アメリカ・ファースト」とは著しく対照的である。

一連の国際文書に基づいて構築されてきた人権規範体系は、長年にわたって恒久的な差別、周縁化および社会的排除の状況に置かれてきた(そしてしばしば現在も置かれている)個人と集団をも対象としている。民族的マイノリティ、セクシュアル・マイノリティ、先住民族、精神障害・身体障害のある人々、戦時強姦により生まれた子どもなどである。これらの人々は、排除から包摂へと至る長期的プロセスのなかに位置づけられてきた。しかし、ポピュリストが掲げる政治課題にこれらの人びとが挙げられることはない。ポピュリストたちは、民族的なナショナリズムと愛国主義を喧伝・実践し、人種的・宗教的優越性および排斥の理論と思想を奉じ、人種的・宗教的偏見および差別を扇動するのである。

ポピュリスト的な指導者とその追随者は、利己的かつ近視眼的な国家主義的利益を基盤としながら自分たちの主張を打ち出していく。そこには多様な特徴や振る舞い方が共通して見られるが、法の支配、民主主義的価値の擁護および人権の尊重を侮るような姿勢が見られることが多い。ポピュリスト的な姿勢の範疇には、歴史・文化・宗教における国家的伝統を称揚することや、司法の独立を非難すること(とくに裁判所の決定がポピュリストの主張に反するものである場合)などが含まれる。さらに、とくにドナルド・トランプ米大統領の振舞いにはっきりと表れているように、自由な報道に従事する特定の報道機関を一貫して排除したり、ソーシャルメディアを通じて「オルタナティブ」な(すなわち偽の)事実を拡散することによって真実を操作したりすることは、深刻な憂慮の対象である。

 

3.苦々しい現実

ポピュリズム的な特徴や特質が欧米で高まりを見せつつあるように思われる。これはやがて、世界秩序をめぐる国家主義的な青写真の固定化へと発展していくのだろうか。私たちはますます、前述した「文明の衝突」の方向に進んでいくのだろうか。世界を、欠乏からも恐怖からも自由な、平和で、公正で包摂的な社会に変えていくという未来像は、理想主義的で現実を見ていない、虚構としての国際的事業にすぎないのだろうか。私たちは、適者生存と自己中心的な「自民族最優先」の反人権的パラダイムに向かう途上にあるのだろうか。これらの設問は、法の支配にこだわることこそ、予測可能性、透明性、正統性、そして差別および排除の禁止に基づく、国家および国内機関・国際機関の指針とされなければならないという認識をもつすべての人々にとって、苦々しいものである。

ポピュリズムの傾向と表出に対しては、国際人権章典で宣明された人権および基本的自由に対する献身的な取り組みをあらためて進めていくしかない。さらに、法の支配を厳格に遵守し、ガバナンス(統治)の公平性と清廉性を確保し、汚職や私的目的の職権濫用を明るみに出していくために、あらゆる努力を払う必要がある。司法運営における適正性と公正性の確保、民主主義的価値の擁護といった課題に対応していくために必要不可欠な条件のひとつは、立法府・司法府・行政府の公正かつ公平な権力バランスを確認することである。トランプ氏のようなポピュリスト的指導者が、独立した立場にある司法府の構成員を「判事とやら」呼ばわりし、職務遂行に適さないとして不適格認定を行なうのは根本的に誤っており、司法の不偏不党性および不可侵性に反している。

民主主義的な公的統制に必要不可欠な要点のひとつは、とくにソーシャルメディアの影響力が増しつつあり、フェイクニュースが流されるようになった今日にあっては、情報源および情報流通者の信頼性と透明性を確認することである。国家主義的な隔離と社会的排除の時代にあって、マイノリティ、とくにセクシュアル・マイノリティ、先住民族、難民、移住者、そして皮膚の色、世系、信条、民族的または国民的出身が異なる人びとは、多くの状況下で本質的に危険な立場に置かれている。人種的・宗教的差別、排外主義および関連の不寛容と闘うという喫緊の課題を追求していくなかでマイノリティが公正に扱われるようにしていくことは、開かれた民主主義の鍵となる要件のひとつであり、あらゆるレベルの研修・教育の基本的要素とされなければならない。以上に述べたことは、利己的なポピュリズムの忌むべき勢いを克服するための一助となることを意図したものである。ヨーロッパの視点から書いてはいるものの、その意味合いは地理的境界を越えている。

翻訳:平野裕二